言葉あれこれ


子供の時は、ほんとうに僕の周り、家庭には読書環境と言えるものがなかった。 漫画本の、少年画報(たしかこの漢字だった気がする)の定期購読があったくらい。 活字もの、本がなかった。

中学で、読書感想を発表する時間があった。その時は、確かテレビで見た「二十四の瞳」を、さも原作で読んだような演技をして、その感想を教室の前の方で発表した記憶がある。 活字が決して嫌いではなかった。 僕の場合、言葉の意味を自分中で反芻して味わったり、それが忘れられないで残っているとかではない。 ある言葉を連想するのは、その言葉が書かれている、あるいは印刷されている紙面ごとになる。紙面のまま連想する。 言葉を紙面ごと思い浮かべてしまう。

思うに、それほどに言葉の世界が自分の中に育っていないのだろう。 もし言葉が自分の中に意味の世界を作っていたら、その映像ではなく、意味のつながりとしって連想するのではないだろうか。 言い方を変えれば、モノとしての言葉から入ることになったとでも言おうか。 そのせいもあって、十代の後半に、かなり落ち込んでいた頃、言葉に、その意味に支えられられはしなかった。 言葉に励まされたり、その文章をなんども読むことで勇気付けらることがなかった。

そして深いところでの、長い沈黙のあと、中年に差し掛かると、それなりに言葉の積み重ねができる。 意味が響きあう。言葉の歴史や、日本語の特性についての知識を得たことによって、その全体像や、ある意味での言葉の限界を予感したりする。 そのことがかえって、言葉は普通に使ったいいんだ、ある意味でいいかがんでいいんだという、安心感が持てるようになった。 前後の意味とかつながりを考えるより、感情に任せて言い放つ。嘘とわかっていることを平気で言う、、、などなど。

しょうもないことかもしれないが、そんな言葉とのかかわりを自分に許すことができる今日この頃です。



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